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爽やかな五月晴れのある日「なかよし作業所生活展」に行ってきました。



陶芸の窯工房には何度かお伺いさせていただいているのですが、毎年開催されている生活展に足を運ぶのは初めて。
部屋に入ると作品がズラリ。









大胆なタッチのもの、細かく繊細な作業が伺えるもの、一つ一つの作品からその人らしさが伝わってきます。作品を眺めていると陶芸の作業を見守り続けられている池谷先生が窯のこと、土のこと、火のこと、そして陶芸作業をされているなかよし作業所のなかまたちのことを、作品を眺めながらじっくりお話し下さいました。
池谷先生が作品を眺めながらお話し下さった中で一番よく話されていた言葉は「これは電気ではできひん。窯やからできるんや」という言葉でした。それは焼きの話で、私が作品に見られる艶や、作品によって色合いが違うことに釉薬かどうかを最初にお聞きしたからか、作品の焼きの色艶を話すときに話されていた言葉でした。
電気だと温度がしっかり管理されていて、その温度から作られる焼きの風合いがある程度定まってきます。でも窯は薪をくべて一定以上の温度に上げると後はもうその作品自身が身に受ける温度次第。作品が並べられた様子によって窯の中の火のめぐりは変わり、隣に並んだ作品の大きさによっても身に受ける温度は変わります。その時その瞬間によって焼きの風合いが変わることを、池谷先生がお話し下さって窯に入っている作品を思い浮かべることによって知りました。そして池谷先生は「どんな焼きになるかは、窯から出さへんとわからへん。面白いで!」ととても嬉しそうにお話しされていました。

池谷先生は、わからない結果をなんと楽しまれていることか。
結果に縛られずなんて気持ちが自由であられるのか。

世の中には求められた結果がきっちり用意されていることが多々あります。そのため世の中が上手く機能していることも数多くあると思います。でもその結果に人は縛られていないか、求められた結果が準備されていないとダメで終えられていないか、そんなことを池谷先生のお話の余韻から感じました。

そして人として大切にしていきたいことの軸についても、なかよし作業所さんが発行された「なかよしの一歩」の中の一文を読むと思いが巡るのでした。



澤田真一 ― 土を楽しむ

なかよし作業所から約10キロメートル離れた山あいに、陶芸工房はある。まさに手づくりの建物で、土の土間である。土が生きる空間である。

澤田真一君の作品に対する評価は、芸術家として国際的に名前も知られるようになりました。
授産施設等で作られる作品の多くが、芸術作品として評価されることもなく、消えてゆくことを思えば極めて稀なことだと考えています。
2006年4月の障害者自立支援法の施工以後、障害者が働く「授産施設」は「高い工賃を得る」ことが目標とされるようになりました。工賃が高ければ、施設が受け取る報酬単価も高くなり、多くの施設はそのことに主眼を置くようになっています。結果、陶芸等の経費がかかり「お金にならない」分野への比重は、急速に縮小され続けています。私たちはそのことが問題ではないかと思っています。
人は働くだけでは豊かになれません。文化や芸術分野への取り組みを通してこそ、豊かな人格を培うものです。障害者の平均工賃が「幾ら」ということが、すべての価値基準ではありません。平均工賃を「高くすれば良い」という短絡的な考えでは、「お金にならない」芸術分野というものは、福祉施設から消えてなくなってしまいます。
陶芸や芸術分野は、一度火を消せば復活させるのは数十年という時間を要します。その間、澤田君のような芸術家が存在したとしても、私たちは見出すことはできないでしょう。
本書をご覧いただければ、澤田真一君が、作品に打ち込む姿と、澤田君にさりげなく支援を送り続けている池谷正晴先生が目に入ってくると思います。手を加えず、それでいて必要なところに適度の刺激を「付加する」、40年以上の経験者だからこそできる絶妙なバランスです。
澤田君の作品は、栗東市の小さな工房から、遥々海を越えて出て行くようになりましたが、そのような評価とは関係なく、「作りたい物を作る」という彼の姿のなかに私たちが本当に大切にしなければならないことを伝えているように思えてなりません。

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